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憂いや寂しさが似合う街



京都、大原、三千院…恋に疲れた女が独り……との歌の通り京都は街全体がどこか憂いや寂しさが似合ってしまう美しさがある。古都と呼ばれる所なだけあり、京の町は時間の流れが一種独特で、重みを感じた。


私の通っていた高校のすぐ近くには江戸時代から明治初期にかけて処刑所だった場所があり、歴史の授業で習ったりもしたが、怪談のネタにすらならない。今ではグラウンドになっているそこには時間は流れていても「歴史」は存在しないからである。しかしこの町は歴史の流れが脈々と今という時間に繋がっている場所の様に感じる。


その昔、皇族が住持した天台宗門跡寺院の一つである三千院にはどこか高貴な風の吹く、咲く花にもどこか気品のある場所。境内のどこに目を向けても優雅という言葉が浮かぶこの寺は石楠花、紫陽花、秋海棠、雪化粧と四季折々の表情豊かに来人々を静かに受け入れてくれる。


私が訪れたのは杉苔の美しい頃。
風に舞う一片の葉ですら何かを問いかける様でふと紫陽花や楓の影に視線を移せば小さな石碑に「生きてごらんなさい」の文字。何かに追われているなどと思ったことのない私だったが、その言葉に知らず背負っていた何かがひょいっとおりた心地がした。


三千院の脇道を「少し」上がると滝があると言うので「少し」なら歩いて行ってみるのも良いだろうと“音無の滝”を目指すことにした。
始めは舗装された道だったが進むにつれ道は石を並べた階段状の登りに変わり、しまいには石すら覚束無い少し広めの山道に変わった。ちっとも「少し」ではない。日頃の運動不足もたたり、次の曲がりで滝が見えなければ諦めようと思った。川の流れる音の中、サァァァァァと言う別の音が聞こえてくる滝にしては静かな音だが、滝に近いことは確かだろうと思い更に歩を進める。

そしてついに山道の突き当たりとも言える場所に私は漸く音無の滝を目にすることが出来た。近くでみるとその大きさに驚かされる。こんなに大きい滝だとは思っていなかったからだ。なにせ「少し」で行けるという位なのだから。

突き当たった場所に滝の名の由来が書かれていた。
『良忍上人はじめ、家寛(後白河法皇の声明の師)、湛智など代々の声明法師は、この滝に向かって声明の習礼をさされたという。

初めは声明の声が滝の音に消されて聞こえず、稽古を重ねるに従って、滝の音と声明の声が和し、ついには滝の音が消えて、声明の声のみが朗々と聞こえるようになったと言う』声明法師の喉が鍛えられたからではないかと私は思うが、三千院の脇道を「少し」登ったところにある音無しの滝へ三千院へ行かれる際は是非行ってみたら如何だろうか。